懐かしい未来「意識の交感」

 大正期の志賀直哉の小説に、「焚木」という短編があります。赤城山を舞台にした小説ですが、群馬でも意外に知られていないのがちょっと不思議な気がします。あらすじは概ね次のようなものです。

 

「主人公夫婦は、旅館の主人Kたちと、大沼の岸辺で焚き木を始めた。そこでKから不思議な話を聞く。前の年の冬、東京の姉の病気を見舞って帰り、深い雪を踏み分けて鳥居峠を越えたことがあった。月明りで峠もすぐそこに見えていた。ところが、手の届きそうな距離が容易ではなかった。体力が消耗し、意識もぼんやりとしてゆく。後で考えれば、凍死しかねない危険な山越えだったのだ。深夜になり、ようやく峠を越えた時に、提灯の明かりが見えた。Kの義理の兄と三人の人夫だった。不審に思って聞けば、Kの母親が不意に起きだし、Kが呼んでいるから迎えに行ってください、と言ったのだという。あまりに当たり前に言うので、4人は疑いもせずに準備をし、母親はその間、迷いもなくおむすびを作ったり、火を焚きつけたりしていたらしい。後で聞いてみると、それがちょうど、Kの意識がぼんやりし、最も弱っていた時だったという。」

 

「虫の知らせ」という古くからの言葉がありますが、現代風に言えば、「多次元空間では当たり前につながっている共時性のお話し」とでも言えるでしょうか。志賀直哉は、大自然を舞台とした「人と人との不思議な交感」を描いたわけですが、人間の意識は元来、易々と次元を飛び超える力があるものなのでしょう。文明や科学の進歩は、私たちの意識を3次元の限られた時空に押し留めてしまうという、「副反応」をもたらしてしまったのかもしれませんね。