見えない世界に思うこと「皮膚感覚の不思議」①

盲学校の教員時代、私は触察教材の試作品ができると、必ず真っ先に見えない方に触れてもらうことにしていた。前橋工科大学との合同研究で「globe in hands」と呼んでいた手のひらサイズの地球儀が完成した時もそうだった。地球の全体像が両手の平で瞬時に把握できるはずの地球儀は、私達にとっての自信作であったので、「分かりやすいですね!」といったお褒めの言葉を期待していた。しかし、その答えはとても意外なもので、それだけにずっと記憶に残っている。帰ってきた言葉は「落ち着きますね。」だった。こちらの趣旨を取り違えられたと思い、「大陸の位置関係や地球の大まかな構造が分かりますか?」と尋ねてみると、そのお答えは「分かるから落ち着くんです。」であった。

視覚に障害のある方々と接する中で、時に知っているようで実はご存じないのかな、と感じることがある。言うまでもなくそれは、視覚を閉ざされたことによる情報不足によるものだ。分かったようで分からない曖昧な感覚の中で生きることは、何か足場がぐらつくようで落ち着かない心持ちになることは、想像に難くない。触察を通して「分かる」「理解する」ということは、学びの1つの達成であると同時に、心の安定、情緒の安定に大きく寄与するものであることに気付かされた出来事だった。

 

しかしそれは、見えない世界だけのことだけではない。イタリアの医師であり教育家でもあったモンテッソーリ(1870~1952年)は、「手は心の道具である」と述べ、触察重視の教育を実践し、大きな成果を上げたし、現代の教育・心理の研究者の多くも、触察の重要性を強調している。そして、手で触れることを通して学び理解し、手に馴染む、しっくりくる、落ち着くという一連のプロセスは、どうも皮膚感覚の機能と関係しているようなのである(次回に続く)。