見えない世界に思うこと「音について」①

 視覚障害者の教育・福祉に携わっていると、外部の方から次のような感想をもらうことがある。「見えない方々の聴覚は凄いですね!」、「視覚の代わりに別の能力が与えられているんですね!」といったものだ。盲学校には絶対音感を持っている生徒がしばしば出現すること等を考えると、そうした感想もある意味もっともだ。

 しかし、私たちがアイマスクをして見えない状態を作り、街を歩いてみればすぐに気付くことがある。普段聞こえない音がはっきりと聞こえてくるのだ。より正確に言えば、「物理的な音波として入ってきているのに、脳に保存されない音」が、視覚を閉ざすと、脳がしっかり識別する、とでも言えようか。例えば、ビル街の中にぽっかりビルのない空間があると、反響音の違いから、空き地か駐車場のようなものがあることに、ほとんどの人が気付く。これは訓練で培われるもの、というよりは、人間が何かの感覚を失った時、生存のために残存感覚をフル稼働させて代替させているからに他ならない。

 こんな話を、アルペンスキー日本代表コーチの方から聞いたことがある。回転競技の日本代表で海部俊宏さんという往年の名選手がいたが、大歓声が沸き上がるゲレンデを滑走しながら、コーチの声だけをはっきり識別し、その指示に対してだけ、「はい!」と答えたことに驚き、不思議だった、というのだ。普通に聞いていれば、ランダムに飛び散る大歓声の中で、コーチの声はかき消されているとしか到底思えないのに、である。

 

  翻って考えれば、私たちは意識が向かないために、「聞き逃している音」というものが無数にあることに思いが及ぶ。そこには重要な情報が含まれているかもしれないし、私たちの生存に欠かせないものがあるのかもしれない。「意識を向ける」ということが、人間にとっていかに大切なのかを、次回は考えてみたい。