見えない世界に思うこと「音について」②

 盲学校の教員になって間もない頃、こんなことがあった。全盲の男子クラスに自習監督に行った時のことだ。びっくりさせてやろうと黙って教室に入っていくと、「あれれ?先生、今日は自習監督ですか?」と。  

驚いた私は「え、どうして分かったの?」と聞く。生徒は事も無げに「だって足音で分かりますよ。」と答えたのだ。よくよく聞いてみると、人によって靴の摩擦音なども微妙に違うらしい。そして、どうもその音の違いを生徒は楽しんでいるようなのだ。

 

しばらくして、さらに驚くべき話を聞いた。先天盲の鍼灸師をしていた父親の日常を、お嬢様が回想する話だ。「父は声を聴いただけで、私の身体の状況を概ね把握することができました。それどころか、階段を降りる足音を聴いて、その日の健康状態を見事に言い当てることができました。」

 

私自身、親しく接している視覚に障害のある方から、微妙な声の違いで「今日は体調が良くないんですか?」などと言われ、驚くことが多い。笑顔で元気に接していても、ちょっとした不調を見破られてしまうのだ。気持ちが張っていて、自分では疲れに気づいていないのに、「今日は無理しない方がいいですよ。」などと言われ面食らうこともある。言われて初めて自分が疲れていることに気付くのだ。

 

前にも述べたことだが、これらのことは視覚に障害のある方の特殊能力ではない。音に意識を向けることにより、人間の聴覚は驚くべき能力を発揮することの証である。視覚を失っても、感覚器としての耳の機能そのものに、変化がある訳ではないのだから。

 

音に意識を向けることの大切さについて、日本でもシュタイナー教育で有名なルドルフ・シュタイナーは、次のようなことを述べている。「幼少期に自然の音や様々な音色に耳を傾けることは、非常に重要である。それができた子供は、やがて青年になった時、自分の中の本当の声、自分の中の深奥の、幽かな声に耳を傾ける能力を獲得するのだ。」

 

地球上のすべての物が、ある周波数をもって振動しているのだとすれば、人間の臓器や魂的なものですら、微細な周波数で振動し、何らかの情報を伝えてくれているのかもしれない。そうしたものに耳を澄ませ、感じ取る能力があれば、私たちの人生はもっと豊かになるに違いない。