見えない世界に思うこと「音について」③

盲学校に勤務をしていると、長い付き合いになる卒業生もいる。全盲のA子さんもそのひとりで、私が彼女の担任をしてから二十年来の付き合いがある。数年前、彼女が久々に前橋に戻ってきた時のことだ。年頃なのに彼氏がいないので少し心配になり、「どんな男性が好みなの?」と聞いてみた。しばらく考えてから、「そうですね。声ですかね。」という答えが返ってきた。意表をつかれた答えだったが、同時に、なるほど、とも思ったものだ。

 

振り返って思えば、盲学校の生徒たちは、人の良し悪しを声で見定めることがしばしばあったし、教員の年齢なども、声で想像していたようだった。だから時々大きな誤解をする。五十代の教員を二十代だと思ってみたり、その逆もあるわけだ。それだから時々、本当の年齢が分かってガッカリしたり、大笑いをすることもある。そのまま生徒を騙し続けて、若く思われようとする教員もいたりする。

二十代に間違われていた教員は、声が美しい。そしてどこかしら心持ちも、少女のような方だったりもする。だから彼らは、確かに大きな誤解をしていたわけであるが、別の意味では、その人の心持ちの若さを言い当てていた、とも言えるのだ。

 

私たちが、その時々の自分自身の声の調子を考えてみても、合点がいくことがないだろうか。近頃私は毎朝仏壇に向かい、般若心経を唱えるようになった。神仏に向かうと同時に、自分自身に向かう時でもある。否応なく気付くことだが、心身が整った時とそうでない時の自分の声が、違っているのだ。声が荒れて透明感のない時、その理由を探ると思い当たることがあって、恥じ入ることがある。声は心の有り様を映す、鏡のようなものなのかもしれない。「声色」という言葉は、「声」を「色」と捉えることで、そのことを言い当てているようにも思えてくる。透明な色、くすんだ色、濁った色があるように、声にも、その源にある心にも、同じような性質があるからだ。声を大事にしたい、と思う。

 

その後A子さんは結婚し、東京で一児を設けて幸せに暮らしている。結婚した男性は、盲学校の先輩で、大学ではコーラス部に所属していたそうだ。結婚式では、大学時代の仲間たちと、アカペラを披露してくれた。美しい声だった。