見えない世界に思うこと「音について」④

 今思えば恥ずかしい話だが、盲学校に赴任して10年ほど経った頃、生徒たちにチェロの音色を聞かせたいと思い、群響のチェリストの先生からチェロを習っていた時期がある。結局は物にならず、生徒たちは陰で「ギゴガゴギゴガゴ」と、僕のチェロの音色を擬音化して面白がった。涙ぐましい僕の努力は、生徒たちの心を癒すどころか、自分自身の神経にも多大なるストレスを残すだけで、終わった。

 ところで、チェロを習ったことのある方ならご存じだと思うが、今弾いている弦とは違う弦が、共鳴して鳴ることがある。音合わせもできて、先生がある音階を鳴らすと、僕のチェロのある音階が勝手に共振・共鳴して綺麗な音を出す。自分の弓で弾くよりも、神秘的で美しく、その音を時々思い出す。

 音響治療で有名なミッチェル・ゲイナー医学博士は、次のように述べている。「音響同調は、ある物体のリズミカルな振動が、同様の周波数を持つ第2の物体に放射されると、第2の物体が第1の物体に共鳴して振動するプロセスのことだ。(中略)音響同調が私たちに感情的な影響を与え、それによって細胞レベルの影響が生じる可能性がある」。彼によれば、チェロと同様に、人間の身体も共振・共鳴によって脈打ち、機能しているのだという。生体内に不協和音が生ずれば、細胞はダメージを受け、病気になるというわけだ。

 私たち自身の身体が音を奏でている楽器のようなものだ、と考えるのは、面白くもあり、恐ろしくもある。怒りの感情が生じれば、生体内に不協和音が生じるばかりではなく、周囲の人々の身体(楽器)にダメージを与えることになるのだから。シュタイナーは、人間には物理的に感じられる感覚器の他に、霊的な感覚器が実際に存在すると述べている。五感が使われなければ退化するように、霊的にまどろんでいる現代人には、容易に機能しない感覚器、ということになるだろうか。

唐突だが、縄文の人々はシュタイナーが言うところの感覚器を、五感と同じように働かせて生きていたのではないか、と思う。1万4千年間戦争が起こらなかった驚異の歴史は、最終的にはそこに生きた人々の心の状態に起因する。周囲の人々の思考や感情を以心伝心で読み解く霊的な感覚器があれば、憎しみ・嫌悪・不信の感情の破壊力を、当たり前のように認識できたはずだ。思うだけなら許される、などとは決して考えなかっただろうし、感情を理性で抑える必要もなく、ごくごく自然に、宇宙や大自然と調和して生きていたのではないか。

 幸いなことに、私達日本人には、10%から50%(諸説あり)の縄文人のDNAが今なお存在しているという。いびつに歪む日本社会だが、まだ間に合うかもしれない。チェロの演奏には失敗したが、せめて自分の身体から発せられる音色が少しはましになるように、見えない世界に思いを馳せてみたい、と思う。